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原始文明がレペテする

なんか猛烈な勢いで仕上げちゃった『反復』評。
こういう話を書き出すと止まらないんだよな。
脱線しまくりだし論理的にも疑問だし、もはや作品レビューじゃないような気も…まいっか。
ベルリンはともかく、世間的な評価(特にリスペクトしまくりの山村ブログ)に楯突こうとして、力みまくりです(笑)。

ミカエラ・パヴラートヴァーの『反復』は、「繰り返し」をキーにしたアニメ。冒頭から、ブランコを押す手・ディスプレイ中の芋虫・交尾する昆虫…そんな描写から始まり、生物の世界が反復運動で成り立っている事が示される。
それは人間同士の関係でも例外なく適用され、メインのストーリーが始まると、反復運動する男女間の営みが、併行する3つのエピソードで描かれて行く。新聞を読む男に食事させようとする女/自殺しようとする男を止めようとする女/男に駆けよってきてキスするものの電話のベルで駆け去って行く女。同じ事を延々繰り返し、日常の閉塞感をあぶり出す。この繰り返しが微妙に崩れて行き、ある瞬間、その息の詰まる空間からみんなが脱出しようとするのが本作の主眼だ。
ところが本作にはジャズバンドによる劇伴が入り、音楽はこのストーリー展開を丁寧になぞる。なぞると言うより、この反復運動を音楽が主導していると言っても間違いはない。言い替えれば、ちゃんとしたクラシカルな変奏曲がBGMとして使用されている。
だがそもそも、この手法ってバロック音楽の世界では普通の光景だったんじゃないのか?

《反復》という手法は、古典主義音楽(いわゆるクラッシック)が確立する18世紀までは音楽の担当分野だった。根はピタゴラス時代のギリシャで、星の運行(つまり当時の世界観では天界の原理)と音との相関関係を追求した事に始まる。星々はギリシャ時代…いやギリシャに限らず、テレビも何もない時代には1年かけた大河ドラマで、毎夜上映されるスペクタクル映画で、まあその他いろんな意味で娯楽だった。星と神話・民話がダイレクトに直結しているのは、彼らがそれだけゆったりとしたペースで生きて、現代のシネコンやテレビ番組と同じ感覚で空を観ていたのが理解できれば、容易に推察できる。
例えば。
東洋では「月に兎がいる」という。中世以降ですらこういう考えを「風流」などと言って現実と切り離してしまう人ばっかりになってしまうワケなんだけれど、ここでひとつ、ある実験をしてみて頂きたい。自分の生活空間の中で、昇って行く月が見える場所を見つけ、毎日同じ時刻に数十分、月を眺める。どんな風景が見えて来るだろう。
実際にやってみるとわかるが、本当に兎が見えて来る。月の兎の解釈には2種類あって「餅つきしてる兎」と「跳ねている兎」の絵があるが、このうち跳ねている方の兎が見え始める。月の進行方向が兎の姿に一致して、飛び跳ねている姿に見えるからだ。映画は1秒24コマのせわしない世界だが、月の映画は1日24コマくらいだ。何日も観続けていると、もうひとつの周期である1ヵ月28コマのアニメも理解できるようになる。月は満ち欠けを繰り返し、また空に上がる時刻も変化して行く。兎が去ったり、またやって来たりという光景を、実際に目にする事ができるだろう。
月は夜空で一番目につく光源で、夜空のシネコンではアクション大作映画にあたる。空にはまだ他にも芸術作品の各種星座があり、スペクタクルな銀河があり、予想を裏切るサスペンスな惑星や、突如として登場するホラーでジャーロな彗星も存在する。空の映画マニアなら、時々上映されるショートフィルムの流星も目にする事になるだろう。
古代人は、そこから周期性というモノの複雑さを学び、自分たちの文化へ集め取った。その静的な側面が神話や民話であり、動的な側面が音楽。元々はこの2つは分化せずに、音楽に乗せて物語を詠唱してきたのだから、現代の文化芸術の細分化は、人間の知恵がどこから始まったのかを見失わせて袋小路に追い込んでいる、とも言える。
公平にもうひとつの側面も書いておくと、古代の祭はセックスを象徴的に扱うものも多い。当然、周期性が重要な意味を持っているのは言うまでもない。音楽はみんなに配られる媚薬として使われていたと言えなくもない。音楽は天界の深遠でもあるが、地上の恍惚も呼び出す魔法だ。

話が思いっきり横道にそれて熱く長くなってしまったが、古代にあった総合芸術的な祭事文化の中で、音楽が「おはなし」から欠落している周期性や律動を補完するべき存在だったのはご理解いただけたかと。
さて、ヨーロッパでは16世紀まで、こんな感じで文化が成長していた。天に《キリスト教》という分厚いフィルターがかかってしまったせいで、ちょっと歪んだところはあるが、19世紀に採譜された民族音楽はみんな「反復」ベースだ。そして、キリスト教は音楽に関して「和声」という別の実験をしていた。これは一種のバベルの塔で、解決できない命題だったというのが後に発覚する(20世紀に入ってマーラーが、明確に和声の崩壊を宣言した)のだが、関係ないのでここでは置いておく。
「反復」はルネッサンス文明の中で徹底的に試された。これが宮廷音楽の華であったバロック音楽の本質。調を変え、リズムを変え、繰り返しは永遠に続く。いまこの眠くなるような音の中に、宇宙と、エロスが見出せないのは現代人だからだろうか。バロックが成熟しすぎた、というのもあるかもしれないが。ヘンデルはともかくヴィヴァルディの曲には、そういう没個性的な芸術から一歩外に出て「自分」というモノが存在する。同時期に活躍したスカルラッティなどは周期を全く否定した曲も多い。彼はただ一人の女主人のために書き続けた作曲家だから、強く人格が出て来るのは当然かもしれない…後に、彼女に子供を産ませている。
この中で、大バッハは徹底して周期性(と和声)を追求し、人間が聞く事を目的にしない音楽を書いた。没個性の究極だ。分周比は正確だが耳にイマイチ心地よくない黄金律を選んだのもそれが理由で、彼の音楽は人間を越えて神に向けられている。この神父のような厳格さが、「音楽の父」と呼ばれる結縁。もっとも人間的には甘さがあったようで、魔術師まがいの詐欺ドクターにだまされて「視力を回復する」インチキ手術をした結果、失明した。ヘンデルが警告の親書を送っていたのに、ドクターの説く失明の恐怖に負けたらしい。彼の音楽からは考えられない、こういうエピソードがとても切ない…とこれは完全な余談。

大バッハ以後、作曲家にできる事はもうなくなってしまった。フーガやカノンによる音の周期性はとことん試され、あとはバッハの仕事の「反復」でしかなくなるからだ。
音楽は、自分が発生した成り立ちを否定して、周期に従うのではなく、周期を律さなければならなくなった。そこで登場したのがソナタ形式。この技法の登場によって、音楽は大人になった。そして、もう子供には戻れなくなった…。
繰り返しの回数を規定し、主題にも縛りをかける。展開の仕方も決まっている。全体は柔軟性を持った美しいアーチ状の構造で、言ってみれば音楽のパッケージング、規格統一だ。音楽の成立過程を考えれば、極めてメタなレベルの規格化だ。音楽界は天界を縛ったのだ。
この形式に注目し、磨きをかけて完成させたのがハイドン。フォーマットを徹底的に試し、どれだけの可能性があるかを探り、壊れないように補強した。「ロシア四重奏」がソレ。ハイドンも没個性的に音楽を創る人だったが、理知的で機知がある。没個性的なのと非人間的なのは違う。ハイドンは言ってみれば汎ヨーロッパ貴族的に音楽を再創造したと言えるだろう。彼の後を即座に追ったモーツァルトの審美性(ハイドンの審美観はアマデウスに比較するとやっぱり薄い)で、ソナタ形式の地位は一気に完成する…つまり、バッハ以後の音楽を担う入れ物になった。
ベートーベン、ブラームス、シューベルト…の流れはまあ面倒なので省くけれど、音楽の周期性を野放図に暴れさせるのではなく、檻の中に入れて飼い慣らし、芸を仕込むという古典楽派の思想は、この直後に勃発するフランス革命・人が人を統治する技法の(血塗られた)試行錯誤と相関している。これ以後、音楽というものは、形式の中でしか語られなくなってしまうのだ。ベートーベンが作中へいかに情熱を織り込んだとしても、それはバッハが産みハイドンが彫琢した天蓋の中の話でしかない。後年、チェコにヤナーチェクという天才的な野蛮人が登場し、天蓋を一人でブチ壊し、バッハ以前の本物の空を再発見しているけれども…もちろん彼の後を継いだ者はいない。

さて、これ以降もロマン派時代が来て人間性の表出が顕著になり、同時に個性を減じる周期性は邪魔者になって行き…と、作曲とリズムとの戦いはまだまだ続くんだけど、面倒なので全部省略。周期性に対してどれだけのノウハウが積み重ねられているか、音楽という技法の背景面はこれで書けていると思う。
「反復」を表現するのに、音楽はアニメに対して200年の優位性があるわけだ。
この事実を明確に意識して映画を製作している人は多い。自分的にはジョン・カーペンターを挙げておく。彼がミニマルな音楽を使って、殺人やアニミズムや人間の暗黒面ばかりを扱うのは、こういう側面を知識として知っているからだ。
山村浩二が上映会でセレクトしたスゥエーデンの短編アニメ『リボルバー』も、このあたりの「周期との戦い」がメインのテーマ。音楽を過剰に語らせず、押え気味の表現にして、扱いたい周期性を動画にシフトさせている点で、目で観る事ができる音楽となっている。
ここでパヴラートヴァーの『反復』に戻る。
この作品は反復行動からの脱出と、新たなる反復行動へ組み込まれてしまう人間の業を描いているワケだけど、これって劇伴の音楽で全部言い切ってしまっていないか? 既に音楽で表現されてしまっている部分に絵をつけて、余計に解説しただけじゃないか? …オイラにはそんな風に見えちゃうんだよね。
この軽快でイン・テンポなジャズに、セックスの暗喩や星の巡り自然のサイクルを見出せないのは、逆に現在の人間が陥ってしまった「文明過剰」な状況の結果なんじゃないか…そんな気がする。
この作品は、単色のパステルで、赤や青の原色の切り替わりが見事。人物のみを描き、背景を省略してしまった空間感覚や、パワーのあるラフなタッチで描かれる犬の感情表現も心動かされる。
でも、主題の全てがBGMだけで言い切られてしまっているような気がしてならないのだ。
本作は、その部分に気付かずに製作されてしまったんじゃないかと思う。夜空を見上げて、天の音楽を聞きさえすれば、『反復』で描かれている閉塞状況はみんな無意味に消えさってしまう。
少なくとも、自分にとっては。

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